無職が「職業に貴賤なし」を考える
こんにちは、ぼくの考えを聞いてください。
「職業に貴賤なし」という言葉がある。一般的な認識では「働くということは皆等しく貴いことで、仕事の内容によって、その人を差別すべきではない」という意味でつかわれるだろう。
この言葉を巡って、なにやら言い争いが起こってるようだ。
高収入の人が作った綺麗ごとだ、現実問題として職業差別は存在する、とか。
ぼくはみんなが喧嘩するところを見たくないので、考えた。
ちなみにぼくは、新卒で入った会社を二週間で辞めている。外部からの視点も必要であろうということで、無職のぼくがこの言葉を考えてみる。
〇なぜ働くのか
え~まずなぜ働くのかというところから入ろう。、「やりがいが~」とか「社会に貢献~」とかいう思ってもない嘘はつかなくてよい。
原始時代に就活があったら、絶対落ちるよ。
人間が働くのは単に生存手段である。この社会において食うためには働かなければならない。原始の時代、ほかの動物に比べ、身体的に劣る人間がこの地球で生きてくためには、社会を作って役割を分担しなければならなかった。
つまり働くことが善であるかとか悪であるとかいう話ではなく、生きるために働き、生きるために社会は生まれたのだ。陳腐な言い回しになるが、人は一人では生きられないのだ。
〇職業とは
こうして社会が生まれると、次に発展し始める。狩りが得意な人は狩りのみに。道具を作るのが上手な人はそれのみに従事するだろう。そのほうが効率がよく、利益が最大化されるからだ。すべての人に役割が与えられ、責任をもって受け持つ。ここで重要なのは誰一人も犠牲になっていないということだ。
これによって集団からひとつ発展した高度な分業社会が生まれる。でいろいろあって現在に至る。
〇職業に貴賤はない!
ない。これはぼくが死に物狂いで7、8分考えて出した結論だ。
上記の前提で考えていくと職業に貴賤はありようがない。なぜなら必要で生まれているからだ。貴賤があるとするなら、職業に貴賤とか言い出しちゃう、人間自体に存在するのだろう。どんな仕事も必要だから生まれ、誰かがそれを担わなければならないのだ。
確かに役割分担を行っていくと、重要度に差異は生じるであろう。総理大臣とコンビニ店員の重要度は違うだろう。
だがどちらも誰かがやらないと困るのである。首相もコンビニがないと夜食買いに行けないだろう。そこに貴賤を生み出すのはもうひねくれすぎ。必要だからその仕事は生まれたのであって、もし誰からも必要とされていなければ、そんな職業は存在しないはずだ。
そして重要になってくるのはその仕事とどう向き合うかだ。どんな仕事も必要があるのだからすべての人はその仕事に誠実に取り組む必要がある。理想論として総理大臣もコンビニ店員も誠実に行わなければならないのだ。何度も繰り返すが貴賤があるとしたら人間だ。無職のぼくがこんなことを言っているのだ。
人を職業で見下す人がいる。こんなに社会貢献している自分のほうが正義で、あんなみっともない職業についているあの人は悪だ、と。
職業が生まれた背景を考えると、そこに善悪が介入する余地はない。どんな仕事についてもよい。あなたは社会に必要だ。
という結論になった。どうだろうか?
お前が言うな。
という声が雨あられのように聞こえてくる。そう、ぼくが貴賤の賤側の人間であるということは言うまでもない。以上だ。