人が死ぬとなんで悲しいんだろう
ぼくの祖母は末期の癌だ。
意識が混濁しており、会話もままならなくなってきた。一ヶ月前までは本当に元気だった。
日を追うごとに症状が悪化しており、ぼくは祖母の「死」を意識するようになった。
祖母が死ぬことを想像するだけで悲しくて涙が出そうになる。
ぼくは以前このような記事を書いた。
そして理論としていずれ自分に訪れる死の恐怖を克服したつもりだった。
なぜ人のことになるとこうも悲しいのだろう。
人間はいつか死ぬ。想定できることが起こっている。
動物的に見れば一個体の死に過ぎない。
なのに悲しい。今までの優しくしてくれた思い出を考えると涙が出そうになる。
人間の生きている意味が子孫の繁栄だとして、一見必要なさそうに見える「愛情」や「思い出」がこうも人を悲しくさせる。
よくわからなくなる。
「悲しくて涙がでる」ってすごいと思う。
普通なら「叩かれる→痛い」のようにまず体に原因があって感情がわくのに対して、「悲しい→涙が出る」は感情を起因として体に現象が起こっている。
感情が体を超越しているような感じ。
ぼくはずっと人間は所詮動物の一種、「愛情」や「悲しみ」は後付けだと考えていた。
でもその「愛情」や「悲しみ」によってぼくはものすごく揺さぶられている。祖母を大事にしようとしている。理論を越えて感情で動いている。
ここまで悲しいと考え方が変わってきた。
ぼくは「動物」である前に「孫」なんだ。
後付けでもなんでもいいが、祖母にはずっと長生きしてほしいのだ。
人ってほんと何のために生まれてきたんだろう。本当にわからない。
どんなに成功した大金持ちも、末期の癌患者も死は平等に訪れる。
祖母の病室には多くの人が訪れて思い出話や感謝の気持ちを述べに来たりする。
祖母は「いい人生だった。」とよく言いだした。
「いい人生」
どうすればいい人生になるのだろう。わからない。死ぬ前じゃないと多分わからない。死ぬ間際に今までの人生を振りかえるのだろう。
なにをもっていい人生とするかはその人によるだろうが、共通して言えるのは後悔しないことだと思う。
どれだけ失敗しても妥協しても最期に後悔しない人生。
祖母は今でもぼくのことを気遣ってくれる。
こういう人になりたい。
死は悲しい。悲しい。悲しい。その人が物質的にこの世から消えてなくなるのが信じられない。
だが思い出は残る。その人の哲学や世界観はずっと忘れない。それを思い出すだけでいつでも会えるような気がする。
大事な人がいる人は、話せるうちにたくさん話しておこう。その人の考えかたをこの世に保存しておこう。それはずっと消えない。
人間は動物にすぎない。でもそんなもん通り越すような愛情や悲しみで溢れている。不思議な動物。
人が死ぬとなぜ悲しいんだろう。理由はない。理屈抜きでその人が好きだからだ。
祖母とこれからも死ぬまで思い出を作ろうと思った。